金曜の夜、久々の出張で上京した奥村は、そのまま週末まで付き合わせるつもりで、古くからの友人を呑みに誘った。
友人・橘義明は、兄の仕事の手伝いのために今は東京でひとり暮らしをしている。
彼の指定したバーで待っていると、じきに橘がやってきて、お互いの近況報告となった。
「じゃあ東京の方はお前が任されてるのか」
「全てではないがな」
「すごいな」
橘の兄の照弘は地元の宇都宮で不動産業を営んでいるのだが、本格的な東京進出を目指して都内に事務所を構えたのが数年前。橘は現在、その東京事務所を取り仕切っているという。
顔の広い照弘のお陰で事業は順調に進展し、今では企業相手の大きな案件もあると聞いた。
それを、いくら身内とはいえまだやっと30になろうかという橘に任せてしまうとは。
兄の潔さを褒めるべきか、その信頼に値した橘を称えるべきか。
「じゃあ忙しいんだな。遊ぶ暇もないんだろう」
「まあな」
静かにグラスを傾けている姿からは想像も出来ないが、この男が相当の遊び人であることを奥村はよく知っている。
「せっかく気ままな独身生活だっていうのになあ。勿体無い」
それを聞いて微笑った橘の表情に含みがあるような気がして問いただそうとしたのだが、橘の携帯電話の着信音に遮られてしまった。
「もしもし」
この場の雰囲気を壊さぬよう、いつもより低い声でひっそりと喋る橘だったが、隣にいれば聞くつもりがなくとも会話が耳に入ってしまう。
「……ええ、お疲れ様です……それが、今日はちょっと遅くなりそうなんです……そうですね、そうして下さい」
(???)
短い会話で電話を切った橘に、慌てて奥村は尋ねた。
「遅くなるって、もしかして先約があったのか」
というか今の口ぶりからして相手は大事な相手のようだ。自分のために予定を棒に振ってくれたのだろうか。この男がそんな殊勝な人間だとは思えないが。
「先約というほどではないんだが……一応、日付が変わる前には家に居たいな」
左腕の時計を見ながら言う。
「まさか、家に女でも待たせてるのか」
「………野暮なことを訊くな」
否定しないところをみると真実らしい。奥村はすっかり驚いてしまった。
「女性を家に待たせておくなんて………初めて聞くぞ?」
この男は、女性関係に限ってはものすごくドライなはずだ。ひと時の快楽のために家に呼びつけることはあったとしても、基本的にはプライベートにはあまり深く関わらない。それなのに久しぶりに会った友人を早く帰してまで会いたい女性が、家で待っているだなんて。
「夕飯なんかも作らせて、一緒に食べたりするのか?あのお前が?」
「別に作らせてる訳じゃない。作ってくれるって言うからお願いしてるだけだ」
「………くそう、のろけやがって」
奥村はいじけつつ、それでも橘の相手の女性のことが気になってしょうがない。
「なあ、その人がずっと探してた人なのか」
そう尋ねると、橘はイエスともノーとも言わず、黙って眉を上げただけだった。
この男は、中々本音を言わない。
けれど過去に一度だけ、何かの拍子に漏らした事がある。
酔って饒舌になるタイプではない。たぶんまだ学生の頃だった。
いったい何のときだったか。
自分はずっとある人を探しているのだ、と橘は言った。
自分は、そのひとの為に存在しているのだ、と。
それはきっと、いわゆる運命の赤い糸で結ばれた相手ということだろうと奥村は解釈した。
そして、この男の全てを理解するのは不可能だな、と思ったものだ。
周囲の人間を異様なほど気遣う面もあれば、女性関係にはものすごくドライだったり。はたまた少女漫画の主人公レベルでロマンチストなことを言ってみたり。とてもついていけない。
あのときからずっと、探していたのだろうか。運命の相手を。
そして、やっと見つけたというのだろうか。
「どんな人だ」
「……………」
話してくれる気はないようだ。
まあいい、と奥村は引き下がった。
いずれ会える日が来るだろう。なんとなくそんな予感がした。
「しっかしまいったな。今日はお前のところに泊めて貰うつもりで、ホテルの予約なんか取ってこなかったんだ」
さすがにそれは橘も想定していなかったようだ。
驚いた顔で、週末だぞ、と言ってくる。
「そうだよな。早めに予約を取っておいたほうがいいな」
そう言って、奥村は携帯電話を取り出した。
ところが───……。
「え、おたくも満室ですか?」
何か大きなイベントが近くであるらしく、周辺のホテルは一流どころからビジネスホテルまでどこも満室だという。
電話帳を借りて片っ端からかけても駄目だった。
残る手段はラブホテル。
(それだけは絶対にいやだ……な……)
あそこほどひとりでいてみじめな場所はない。
「仕方ない。漫喫でも行くか……」
せっかくの東京だ。今から帰るという選択肢は有り得ない。
ベッドでの安眠をあきらめかけたその時、橘が言った。
「うちに来るか?」
「………え?」
瞬時に、橘の心を射止める程の美女に、晩酌をしてもらう絵が脳裏に浮かぶ。
「いや、悪いだろ」
そう言った顔もにやけてしまっていたかもしれない。
「仕方ないだろう」
橘の表情は明らかに乗り気ではなかったが、それでも携帯電話を取り出すとどこかへ電話をかけ行ってしまった。
やがて戻ってきて、
「行こう」
と奥村を促す。
「本当にいいのか」
「いい。ただし」
橘の顔が異様に真剣味を帯びている。
「会っても、驚いたりするなよ」
「………なんでだ。もしかして、俺も知ってる人か?」
奥村の知ってる限りの美女が、頭の中を駆け巡った。
「いや、そうではないんだが」
「なら、なんだよ」
「いいか。もし、変な態度をとったら……」
この男が真剣な表情になると、なんだか非常にこわい。まるで脅しだ。
「わかったわかった、心がけるよ」
これでも秘書歴は長い。
いったい何が待っているのかはわかないが、大抵の修羅場はポーカーフェイスで切り抜ける自信が、奥村にはあった。
≫≫ 後編
友人・橘義明は、兄の仕事の手伝いのために今は東京でひとり暮らしをしている。
彼の指定したバーで待っていると、じきに橘がやってきて、お互いの近況報告となった。
「じゃあ東京の方はお前が任されてるのか」
「全てではないがな」
「すごいな」
橘の兄の照弘は地元の宇都宮で不動産業を営んでいるのだが、本格的な東京進出を目指して都内に事務所を構えたのが数年前。橘は現在、その東京事務所を取り仕切っているという。
顔の広い照弘のお陰で事業は順調に進展し、今では企業相手の大きな案件もあると聞いた。
それを、いくら身内とはいえまだやっと30になろうかという橘に任せてしまうとは。
兄の潔さを褒めるべきか、その信頼に値した橘を称えるべきか。
「じゃあ忙しいんだな。遊ぶ暇もないんだろう」
「まあな」
静かにグラスを傾けている姿からは想像も出来ないが、この男が相当の遊び人であることを奥村はよく知っている。
「せっかく気ままな独身生活だっていうのになあ。勿体無い」
それを聞いて微笑った橘の表情に含みがあるような気がして問いただそうとしたのだが、橘の携帯電話の着信音に遮られてしまった。
「もしもし」
この場の雰囲気を壊さぬよう、いつもより低い声でひっそりと喋る橘だったが、隣にいれば聞くつもりがなくとも会話が耳に入ってしまう。
「……ええ、お疲れ様です……それが、今日はちょっと遅くなりそうなんです……そうですね、そうして下さい」
(???)
短い会話で電話を切った橘に、慌てて奥村は尋ねた。
「遅くなるって、もしかして先約があったのか」
というか今の口ぶりからして相手は大事な相手のようだ。自分のために予定を棒に振ってくれたのだろうか。この男がそんな殊勝な人間だとは思えないが。
「先約というほどではないんだが……一応、日付が変わる前には家に居たいな」
左腕の時計を見ながら言う。
「まさか、家に女でも待たせてるのか」
「………野暮なことを訊くな」
否定しないところをみると真実らしい。奥村はすっかり驚いてしまった。
「女性を家に待たせておくなんて………初めて聞くぞ?」
この男は、女性関係に限ってはものすごくドライなはずだ。ひと時の快楽のために家に呼びつけることはあったとしても、基本的にはプライベートにはあまり深く関わらない。それなのに久しぶりに会った友人を早く帰してまで会いたい女性が、家で待っているだなんて。
「夕飯なんかも作らせて、一緒に食べたりするのか?あのお前が?」
「別に作らせてる訳じゃない。作ってくれるって言うからお願いしてるだけだ」
「………くそう、のろけやがって」
奥村はいじけつつ、それでも橘の相手の女性のことが気になってしょうがない。
「なあ、その人がずっと探してた人なのか」
そう尋ねると、橘はイエスともノーとも言わず、黙って眉を上げただけだった。
この男は、中々本音を言わない。
けれど過去に一度だけ、何かの拍子に漏らした事がある。
酔って饒舌になるタイプではない。たぶんまだ学生の頃だった。
いったい何のときだったか。
自分はずっとある人を探しているのだ、と橘は言った。
自分は、そのひとの為に存在しているのだ、と。
それはきっと、いわゆる運命の赤い糸で結ばれた相手ということだろうと奥村は解釈した。
そして、この男の全てを理解するのは不可能だな、と思ったものだ。
周囲の人間を異様なほど気遣う面もあれば、女性関係にはものすごくドライだったり。はたまた少女漫画の主人公レベルでロマンチストなことを言ってみたり。とてもついていけない。
あのときからずっと、探していたのだろうか。運命の相手を。
そして、やっと見つけたというのだろうか。
「どんな人だ」
「……………」
話してくれる気はないようだ。
まあいい、と奥村は引き下がった。
いずれ会える日が来るだろう。なんとなくそんな予感がした。
「しっかしまいったな。今日はお前のところに泊めて貰うつもりで、ホテルの予約なんか取ってこなかったんだ」
さすがにそれは橘も想定していなかったようだ。
驚いた顔で、週末だぞ、と言ってくる。
「そうだよな。早めに予約を取っておいたほうがいいな」
そう言って、奥村は携帯電話を取り出した。
ところが───……。
「え、おたくも満室ですか?」
何か大きなイベントが近くであるらしく、周辺のホテルは一流どころからビジネスホテルまでどこも満室だという。
電話帳を借りて片っ端からかけても駄目だった。
残る手段はラブホテル。
(それだけは絶対にいやだ……な……)
あそこほどひとりでいてみじめな場所はない。
「仕方ない。漫喫でも行くか……」
せっかくの東京だ。今から帰るという選択肢は有り得ない。
ベッドでの安眠をあきらめかけたその時、橘が言った。
「うちに来るか?」
「………え?」
瞬時に、橘の心を射止める程の美女に、晩酌をしてもらう絵が脳裏に浮かぶ。
「いや、悪いだろ」
そう言った顔もにやけてしまっていたかもしれない。
「仕方ないだろう」
橘の表情は明らかに乗り気ではなかったが、それでも携帯電話を取り出すとどこかへ電話をかけ行ってしまった。
やがて戻ってきて、
「行こう」
と奥村を促す。
「本当にいいのか」
「いい。ただし」
橘の顔が異様に真剣味を帯びている。
「会っても、驚いたりするなよ」
「………なんでだ。もしかして、俺も知ってる人か?」
奥村の知ってる限りの美女が、頭の中を駆け巡った。
「いや、そうではないんだが」
「なら、なんだよ」
「いいか。もし、変な態度をとったら……」
この男が真剣な表情になると、なんだか非常にこわい。まるで脅しだ。
「わかったわかった、心がけるよ」
これでも秘書歴は長い。
いったい何が待っているのかはわかないが、大抵の修羅場はポーカーフェイスで切り抜ける自信が、奥村にはあった。
≫≫ 後編
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